Futiloom

塵文

まず初めに私がネット上にさらしている駄文を読んでみようと思ってくださったこと、深く感謝申し上げます。先ほど申し上げた通り、この文章は私が暇つぶしに書いている、表現の精査も、何か誰かのためになるような情報を載せようともしていない、ただの駄文でございます。駄文。もしかしたら駄文という表現ではこの私の文章を表す言葉として不足しているようにも思います。私のこのfutiloom内の文章は塵芥のようなものですから、塵文、といったところでしょうか。
このような自分を貶める行為につき合わせてしまい申し訳ございません。しかし、私はこういう性分なのです。自分をあらかじめ下に置き、他人から侮蔑の言葉を投げつけらた時の心の損傷を最小限にしようとする臆病者なのです。臆病で言葉では自分のことを、自分の文章を卑下してはいても、実際心の内では自分の生み出した文章が、その言葉遣いが最上のものであると自負する心さえ持っている矮小なる人間なのです。そして自分のことをこのように客観視し、できていると思い込んでいる愚者であり、そのような愚者は世の中に数えきれないほどいると自分自身のことを正当化しようとする逃亡者でもありましょう。
そんな自分のことが嫌いでもありますが、それでも何とか自分で折り合いをつけ今日まで生き残ってしまっている私はやはりただの人間でしかありません。嫌いでしょうがない自分を無理やり許容してはいましたが、一生そばを離れず自分とともに歩んでくれる相手のこと好きになってみたくなってしまいまして、でもどうすればいいのかなんてわかることもなくただ時間は過ぎていきました。
そこで私はこう結論付けました、今日明日では無理であると。私が私を好きになるように思考を変えることはあきらめ、私が私を好きになれるように行動を変えてもらおうと考えました。私はどのような私なら好きになれるのでしょうか。私はこのような仮説を立てました、成長しようとしている自分なら好きになれるだろうと。
やはり成長しようとしている若人とは応援したくなるものでありますので、今後そのようなじぶんを目指し、日々思考し、試行していく日々を送っていこうと、少なくとも私は決心しました。さあさあ、何日坊主となることでしょうか。